『メソポタミヤの殺人』新訳・旧訳読み比べ/アガサ・クリスティ

『メソポタミヤの殺人』新訳・旧訳読み比べ/アガサ・クリスティ

『メソポタミヤの殺人』新訳・旧訳読み比べ/アガサ・クリスティ

アガサ・クリスティのなかで一番面白い作品は? と聞かれたら私は『アクロイド殺し』なんですが、一番好きな作品は? と聞かれたら『メソポタミヤの殺人』なんです。

メソポタミアの遺跡発掘現場っていう舞台にまず異境的な魅力を感じるし、語り手であるミス・レザランの語り口に引き込まれるんですよね。すごく個性があって味があって。

推理小説としてのトリックだけを見ると、正直「ん? それって可能?」と思わなくもないので、好き嫌いが分かれそうな作品かなとは思うんですが。

レザラン看護婦の個性、メソポタミアという土地、そして犯人の意外性と背景にあるストーリーが、この作品の魅力なんじゃないかなと思います。

『メソポタミヤの殺人』を最初に読んだのは数年前でしたが、2020年に新訳が出ていたんですね。

そこで、今回改めて旧訳版を読んで、新訳版も初めて読んでみました

読み比べてみると、登場人物から受ける印象が結構違って興味深かったです。旧訳では読み取れていなかった部分に気づけたりも。

でも個人的に好きなのはやっぱり旧訳版でした。

※旧訳版は、2003年発行の石田善彦さん訳のものです。

目次

『メソポタミヤの殺人』のあらすじ

『メソポタミヤの殺人』

物語の舞台はメソポタミヤの遺跡発掘現場。

イギリスからバグダッドに来ていた看護婦のミス・レザランは、ある夫人の世話をするという仕事を紹介された。

その夫人とは、考古学者ライドナー博士の妻、ミセス・ライドナー(ルイーズ)。彼女はライドナー博士の遺跡調査に同行していて、調査隊の宿泊所で隊員たちと一緒に生活をしていた。

しかし最近、ルイーズの様子がおかしいのだという。ライドナー博士が言うには、病気ではないのだが、妄想にとり憑かれているらしいとのことだった。

くわしい事情は知らされないまま、ミス・レザランは発掘現場の宿舎に到着した。ルイーズは30代半ばの、非常に美しく魅力的な女性だった。

隊員たちを紹介されると、ミス・レザランは彼らの中になにか奇妙な雰囲気があることに気づく。妙に緊張していて、お互いを警戒しているような空気感。

発掘現場の様子についてはここに来る前に、「他人行儀すぎるような変な緊張感がある」と人から聞いていたが、まさにそう感じられた。

ミス・レザランが来てから数日後の深夜。ルイーズが「隣の部屋で物音が聞こえた」と訴える。

その出来事を受けてルイーズは、ミス・レザランに何を恐れているかを打ち明けた。それは、男に殺されるかもしれないという恐怖だった。

ルイーズは、15年前に亡くなったはずの前夫からと思われる脅迫状を受け取っていたのだった。

そんな話があった翌日、事件は起きた。

考古学者と再婚したルイーズの元に死んだはずの先夫から脅迫状が舞い込んだ。さらに彼女は寝室で奇怪な人物を見たと周囲に訴える。だが、それらは不可思議な殺人事件の序曲にすぎなかった......過去から襲いくる悪夢の正体をポアロは暴けるか? 幻想的な味わいをもつ中近東を舞台にした作品の最高傑作、新訳で登場(解説:春日直樹)

『メソポタミヤの殺人〔新訳版〕』早川書房 クリスティー文庫

新訳・旧訳を読み比べてみた感想

まず新訳版を読んでの感想は、率直に言うと、違和感ありありでした...(ごめんなさい)。

旧訳と比較してというより、新訳だけを読んだとしても感じそうな違和感。

おそらく、セリフの訳し方の問題だと思います(特にレザラン看護婦)。

アガサ・クリスティ作品全般に親しんでいる人からすると、「この訳は合わないな〜」と感じる人もいるかもなという感じです。

そして新訳と旧訳の両方を読み比べて一番感じたのは、レザラン看護婦の印象の違い。

レザランさん、年齢は32歳なんですが、旧訳では口調や態度から精神年齢38歳くらいに感じていました。

一方新訳版を読むと、年齢相応もしくはそれよりちょっと若いくらいの側面も見られるというか。

しっかりした看護婦っていう人物像がそこまで変わるわけではないですが、自分の中で旧訳版で抱いていたレザランさんからすると、新訳版のセリフはちょっと違うというか「うぉっとこんな言い方もする...のね?」みたいな。

(それが少し違和感にもなりました)

たとえば、ルイーズについての説明を聞いたときのレザラン看護婦の反応。

「病人とはいえないだろう。その女性はただ——そうだな——妄想にとり憑かれているというのかな」
「まあ!」わたしは驚きの声をあげた。
こういわれれば、だれでもアルコールか麻薬の中毒だと考えるだろう!)

旧訳版 23〜24ページ

「看病とはいえんだろうね。あるご婦人が、なんというか、おかしな考えにとりつかれているんだよ」
「まあ」
ということは、アルコールか麻薬ってことね

新訳版 22ページ

遺跡発掘現場に向かう前、周りの人の噂話を聞いているとき。

「あら、わたしはそれくらいで怖がるような人間ではありません」わたしは、笑いながら言った。

旧訳版 35ページ

「いいえ、そのくらいはへっちゃらです」と、わたしは笑いながら言った。

新訳版 34ページ

うーん、こうやって書いてみると別に変な感じはしないような気もしますが、話の流れの中で読むとなんか変なんですよね。。

メソポタミヤの殺人

性格的にもちょっと違った印象を受けました。

たとえば、ライリー医師から手記を頼まれているシーンでのレザラン看護婦の発言。

「あら、冗談はよしてくださいな、先生」

旧訳版 21ページ

ふざけないでください、ドクター」

新訳版 20ページ

え、なぜそんな急にきつい口調に? そんな性格? レザラン看護婦は芯の強い自立した女性だと思いますが、医師への敬意は欠かないはずです(現に、ライリー医師から手記を頼まれて断れない)。

私としては、ミス・レザランという人が言いそうで、作品全体で人物像が統一されているように感じるのは断然旧訳版のセリフです。

新訳版のほうはセリフの口調がなんか統一されていないというか。口語的な軽さと、今そんな言い方しなくない? って感じるような古さが入り混じっているようなところにも抵抗感が。

たとえばレザラン看護婦が、自分の書いた手記をライリー医師に渡したときの心情。

これが活字になったら、どんなに照れくさく思うだろう。

旧訳版 418ページ

こんなものが活字になったらお慰み。

新訳版 395ページ

お慰み...?

うーん。レザランさん(32歳・独身・看護婦)、そんな言い方するかなぁ。そもそも今どき「お慰み」っていう言葉遣いをする人は一人もいないのでは。

(ある程度年配の方がそう言うのであればまだイメージできるんだけど)

上記のような表現とか、たとえば「ひとりごちた」っていう古めかしい表現とかが手記内で使われていたり、一方で「〜ってことね」「とっても」みたいな軽い表現が使われていたりして... この人って、何者...? みたいな、なんか変な感じがしました。

ミス・レザランの語り口はこの作品の魅力の1つなので、新訳・旧訳の違いは作品の印象に結構大きく影響を与えるなと思いました。

個人的には旧訳版の方が断然好きです。

ちょっと古風な部分もあるかもしれませんが、登場人物の描写やセリフにユーモアがあって魅力的に感じられます。

まぁ、最初に読んで「これは好きだ」ってなったのが旧訳版だからでしょうかね。

旧訳版の方は、ほかのアガサ・クリスティ作品とも違和感のない正統派な訳、新訳版の方はちょっと独特で、好みが分かれそうな訳だなと思います。

メソポタミヤ

新訳版のポアロのセリフに関してはそんな違和感はありませんでしたが、口癖である「エ・ビアン」はカタカナでそのまま書かれていました。私はフランス語は全然わからないのですが、文脈によってニュアンスがあるはずなので個人的には日本語にしてほしいところです。

旧訳版は「なるほど」などの日本語にしてくれてますし、ほかのクリスティ作品でもほとんどは日本語に訳されていたと思います。初めて読む人は「どういう意味?」って普通になりそう。

もし、新訳版を読んで「なんか訳が合わないな」と思ったら、旧訳版もぜひ読んでほしいです。

川とボートの表紙のほうが旧訳版です。Amazon ではまだ販売されているようでした。

ただ新訳版の方が、文章を理解しやすい部分はありました。

旧訳版の方は一文が妙に長いものがあったり、理解しにくい文章が一部あります。

たとえばこちら。

「たしかに、これはいわゆる”内部の犯行”のように見える。
〜 中略 〜」
「あなたからそんな言葉を聞くとは思わなかった」ライリー医師がいった。
その言葉を無視して、ライドナー博士は話をつづけた。

旧訳版 148ページ

旧訳版のこの部分、「そんな言葉を聞くとは思わなかった」が意図するところがよくわかっていませんでしたが、新訳版のほうで、なるほどそういうことか〜と今回わかりました。

たしかにこれはいわゆる”内部犯行”のように見えます。
〜 中略 〜」
「あなたの口から”内部犯行”などという専門用語が出てくるとは思いませんでしたよ」
レイドナー博士はかまわず話を続けた。

新訳版 136〜137ページ

これは一例ですが、全体を通して丁寧に出来事が訳されている印象で、状況理解がしやすかったです。

新訳版は、遺跡っぽい表紙のほうです。

メソポタミアってどこ? 遺跡とアガサ・クリスティ

そういえばこの作品の舞台、メソポタミアってどこだっけ? と思ったので調べてみました。

現在の国で言うとイラク。と言ってもイラクの位置がよくわからないので地図で確認します。

バグダッド

メソポタミア文明は、世界史ではたしかチグリス川(ティグリス川)とユーフラテス川に挟まれた場所だと習った記憶があります。

物語に出てくるバグダッドは、イラクの首都でした。

イギリスからはかなり離れていますね。物語の中では、ミス・レザランはイギリスからバグダッドまでの旅を「長い船旅」と述べています。

事件が起きたとき、ポアロはちょうどシリアでの仕事が終わったところで、これからバグダッドを見物し、再びシリア経由でロンドンに帰る予定でした。バグダッドに寄った際に、今回の事件の調査を依頼されます。

そして解決後、ロンドンに帰る途中で遭遇するのがオリエント急行での殺人事件という流れです。

アガサ・クリスティは最初の夫と別れた後、オリエント急行に乗ってバグダッドへと向かい、メソポタミアの遺跡発掘現場で生涯の伴侶となる考古学者マックス・マローワンと出会いました。

その後、中近東を舞台にした作品を複数出しています。

『メソポタミヤの殺人』旧訳版で、ミス・レザランがこのように書いている部分があります。

わたしは考古学についてはまったく知識もないし、知りたいとも思わない。地下に埋蔵されている先史時代の人間の遺体や住居の遺跡などをひっかきまわすのは、わたしにはまったく無意味なことだ。ケアリーからよく、あなたには考古学的なセンスがないといわれたが、そのとおりだと思っている。

旧訳版 80ページ

※この部分の訳も、新訳版よりも旧訳版の方がだいぶ好き

これはもしかしたら、アガサ・クリスティが遺跡発掘現場でマックス・マローワンと出会う前に、考古学に対して抱いていた気持ちなんじゃないかなと思っています。そうじゃなければ、こういう描写をわざわざしないんじゃないかなーと。

そのとき遺跡発掘現場には行ったわけなので、オリエント急行に乗った時点ではすでに遺跡や古代文明への興味を持っていたのかもしれませんが。

それでも彼と出会わなければ、古代遺跡にこれだけ魅力を感じたり、作品を書いたりはしなかったんじゃないかなと思いますよね。

マックス・マローワンのアガサ・クリスティ作品への貢献は非常に大きいなと感じます。

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