『鏡は横にひび割れて』とテニスンの詩『シャロットの姫』を読む
老婦人ミス・マープルが探偵役となる『鏡は横にひび割れて』(1962年)。
本のタイトルは、『シャロットの姫』(The Lady of Shalott)というテニスンの詩の一節から引用されています。
『鏡は横にひび割れて』を読んだあと、この詩のあらすじや意味が気になり詩を原文で読んだので、簡単に日本語訳にしてみました。
どんな詩なのかを知ると、小説の感じ方もまた少し変わります。
物語の鍵となる時代背景も調べてみました。
目次
『鏡は横にひび割れて』あらすじとテニスンの詩
『鏡は横にひび割れて』の原題は ”The Mirror Crack'd from Side to Side”。
ミス・マープルの住むセント・メアリー・ミードの村に、女優のマリーナ・グレッグが引っ越してきたところから話は始まります。
マリーナはゴシントン・ホールという屋敷を買い、5人目となった夫と住み始めました。
ある日、ゴシントン・ホールで行われたパーティーで招待客の1人ヘザー・バドコックという女性が亡くなります。
ヘザー・バドコックはでしゃばりでおせっかいではありましたが、彼女を殺したがっている人間がいるとは考えにくいというタイプの女性。「人違いで殺されたのではないか」という可能性も出てきます。
一方で事件直前、ヘザー・バドコックは女優のマリーナ・グレッグと話をしていました。
ヘザーが自慢気に長話をしている間、マリーナはその話を少しも聞いていないような雰囲気で、遠くを見つめながら凍りついたような表情をしていたとのこと。
マリーナのその様子を、現場に居合わせたバントリー夫人がミス・マープルに説明するときに引用したのがテニスンの詩でした。
ああ、そうだわ、『レディ・オブ・シャロット』をおぼえていない?
鏡は横にひび割れぬ。
“ああ、我が命運もつきたり”と、
シャロット姫は叫べり。マリーナもそういった表情をしていたのよ。
『鏡は横にひび割れて』(早川書房 クリスティ文庫 111ページ)
テニスンとはイギリスの詩人、アルフレッド・テニスン(1809 - 1892)です。
イギリスではテニスンの詩は学校の教科書に出てくるようで、おそらくイギリス人であれば誰でも知っている詩人なのだと思われます。
小説では、この詩の一節は次のように訳されて登場しています。
織物はとびちり、ひろがれり
『鏡は横にひび割れて』(早川書房 クリスティ文庫 141ページ)
鏡は横にひび割れぬ
「ああ、呪いがわが身に」と、
シャロット姫は叫べり
本文中には詩の詳細な解説まではなく、シャロット姫がそんな表情をしていたということで話は進んでいきます。
でも、呪いって何なのでしょうか。
シャロット姫のような表情って一体どんな表情なんでしょうか。
鏡が横にひび割れるって、どういうことなんでしょうか。
どうしても知りたくなり、テニスンの詩『The Lady of Shalott』を読んでみました。
※詩のタイトルは、日本語では『シャロットの姫』『シャロット姫』『シャロットの乙女』『シャロットの女』など複数の呼び方があるようです。
テニスンの詩『シャロットの姫』のあらすじ
テニスンの詩『シャロットの姫』(The Lady of Shalott)のあらすじは、簡単にまとめると次のようなものでした。
シャロットの姫は「外の世界を見てはいけない」という呪いをかけられ、塔の中で鏡越しに外を見ながら機を織って暮らしていた。
しかしあるとき勇ましい騎士が鏡に映り、外の世界を窓から直接見てしまった。
その瞬間、鏡が横にひび割れて、シャロットの姫は自分に呪いがふりかかることを自覚する。
運命を悟った姫は塔から下りて小舟に乗り、川を下る間に命を落とした。
もう少し詳しく詩のストーリーとなる箇所をピックアップして、詩の雰囲気を残しつつまとめてみたのが以下です。
川に浮かぶシャロット島の塔に、ひとりの姫が暮らしていた。
彼女は昼も夜も機織りをして過ごしていた。
機織りの手を止めてキャメロットの城を見たら、
呪いが降りかかるというささやき声を聞いていたから。
その呪いが何なのかを彼女は知らなかったが、
機織りを黙々と続けながら暮らしていた。
彼女の前には鏡がかかっていて、
外の世界を鏡を通して眺めながら、その様子を織っていた。
彼女にはまだ忠誠を捧げてくれる騎士はいなかったが、
機織りに喜びを感じていた。
鏡に映る、魔法のような情景を織ることを。
しかしある月夜、若い恋人が連れそう姿を鏡越しに見て姫は言った。
「鏡に映る影だけの世界なんて、もううんざり」
ある日、塔のそばを円卓の騎士ランスロット卿が通りかかった。
鎧、かぶと、羽飾り、カールした黒髪。
馬に乗り、キャメロットの城に向かうランスロット。
そのまぶしく輝く姿が鏡に映り込んだ。
「ティラリラ」と歌うランスロット。
鏡に映った彼の姿を目にした姫は機織りの手を止め、
部屋の反対側にある窓に歩み寄った。一歩、二歩、三歩と...
彼女は咲き乱れる睡蓮を目にし、ランスロットのかぶとと羽飾りを目にした。
そしてキャメロットの城までも見てしまったのだった。
そのとき突然、織物が舞い上がり、糸が宙に散った。
鏡は横にひび割れて、
「呪いが私に降りかかる」とシャロットの姫は叫んだ。
嵐のような風の中、自分の運命を悟った姫は塔から降り、柳の下に小舟を見つけた。
キャメロットの城を見つめ、小舟がつながれていた鎖を解くと、小舟の上に横になった。
小舟はキャメロットの城へ流れていく。姫は最後の歌を歌っていた。
流れるうちに彼女の血はゆっくりと凍り、そしてその目は完全に光を失った。
キャメロットの城に流れ着いた姫を見て、ランスロット卿は言った。
「美しい顔をしている。神よ、慈悲と恵みをシャロットの姫に」
『The Lady of Shalott』の原詞全文は、Gutenberg という海外版青空文庫で読むことができます。
The Early Poems of Alfred, Lord Tennyson, by Alfred, Lord Tennyson
詩の全文はものすごく長いです。小説で引用されていたのは、ごくごく一部の一節だったことがわかります。
画家ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスによる絵画。 小舟に乗ったシャロットの姫 John William Waterhouse, Public domain, via Wikimedia Commons |
詩を読んでみると、キャメロットって何? ランスロット卿って誰? となりますが、この詩には元ネタとなる題材がありました。
題材は、中世ヨーロッパで広まった伝説の物語『アーサー王物語』。キャメロットはアーサー王の国の都(城)の名前のようです。
ランスロット卿はアーサー王に仕えた騎士で、アーサー王の円卓に座ることを許された円卓の騎士の1人。その中でも最も優れた第一の騎士でした。
シャロットの姫のモチーフとなったのは『アーサー王物語』に登場するアストラットのエレインという女性。
彼女はランスロット卿と出会って恋に落ちたが、ランスロット卿には振り向かれることなく悲嘆に暮れて死んでしまう。エレインの亡骸は小舟に乗せてキャメロットへと流された、というのが元の話のようです。
ランスロット卿は『アーサー王物語』ではアーサー王の王妃グィネヴィアと恋仲になってしまうので、その他の女性は恋破れる形になります。王の妻と不倫しながら他の女を次々と虜にするランスロット、罪深すぎないか...
シャロットの姫も一瞬でランスロット卿に心を奪われますが、恋が叶うことはありません。
画家ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスによる絵画。 機織りをしながら、影の世界はうんざりだと言うシャロットの姫 John William Waterhouse, Public domain, via Wikimedia Commons |
ちなみに、バラの品種「レディ・オブ・シャーロット」も、このテニスンの詩が由来になっているようです。
オレンジとピンクが混ざり合ったような、きれいなバラですね。
ただこの「レディ・オブ・シャーロット」、テニスンの詩が由来ならシャロットと呼ぶのが正しいと思うんですが、シャーロットで流通してるんですね。
テニスンの詩で描かれているのは「Shalott(シャロット)という島の姫」。一方、シャーロットは女性の名前で、綴りは Charlotte です。
こちらの YouTube で詩の朗読を聞くことができますが、Shalott の発音はやはり「シャロット」です。
YouTube The Lady of Shalott ~ poem with text
詩を読んだ上での『鏡は横にひび割れて』の感想は下に続きます。
『鏡は横にひび割れて』感想〜詩を読んだうえで(ネタバレあり)
詩を読んでから改めて『鏡は横にひび割れて』を振り返ると、女優マリーナとシャロットの姫の重なりや、凍りついたような表情の意味がより感じられます。
※以下、ネタバレを含む感想なのでご注意ください※
テニスンの詩では、シャロットの姫は自分が呪いにかかっていることは知っていたものの、呪いがどんなものなのかはわかっていなかった、ということになります。
塔の外の世界、キャメロットの城を直接見てはいけないことはわかっていた。
でもある日、輝くばかりの勇敢なランスロット卿が鏡に映り、呪いの存在を一瞬忘れてしまったのか、それでも見たいという欲求が優ってしまったのか、外の世界、キャメロットの城を見てしまった。
その瞬間に鏡が横にひび割れて、シャロットはその呪いがどんなものか、つまり自分は死ぬ運命にあると悟ったというのが詩のストーリーでした。(私の理解では)
そして、マリーナがヘザー・バドコックの話を聞いたときにしていたという凍りついたような表情。
マリーナは妊娠初期に風疹にかかり、ようやく授かった自分の子どもは障害を持つことになってしまった。風疹が原因だという事実は医者から知らされていたが、いつどこで風疹にかかったのか、誰に移されたのかということは知る由もなかった。
しかし、ある日ヘザー・バドコックの自慢話を聞くうちに、その原因を知ってしまった。
「この女が、私に風疹を移したのだ...
風疹で寝込んでいたにも関わらず、無理やり私に会いに来て...」
それはまさに、マリーナにとっての呪いが明らかになる瞬間。
「鏡が横にひび割れた」とき、シャロットの姫が呪い = 死ぬという自分の運命を悟ったのと同じように、マリーナも自分を苦しめた呪いの原因、自分の運命を苦しいものにした原因を悟ったのだ。
と私は理解しました。
物語の後半、マリーナの凍りついたような表情が写真に収められていたことがわかります。写っていたのは何の感情もない「無」の表情。
引き起こされた感情があまりにも強烈なために、顔の表情などでは表現できなかったと思われた。ダーモットは前に一度こういう表情を浮かべた男の顔を見たことがあるが、その男はその一瞬後には射ち殺されたのだった......
『鏡は横にひび割れて』(早川書房 クリスティ文庫 296ページ)
ダーモットは写真を見て、以前にもこの表情を見たことを思い出します。
それは「今にも自分が殺されると悟った男」の表情でした。
鏡が横にひび割れたときの表情とは、自分の悲劇的な運命の真相を知ったときの表情なのだと思いました。
強烈すぎてすぐには受け入れられない、顔には表情としてすぐには出てこないような、衝撃の真相を突きつけられたときの表情。
腹落ちしました。詩を読んでいなかったら、ここまでは感じられなかったです。
また、マリーナの最期も、シャロットの姫の最期の姿に通じます。
最後にミス・マープルは、醜いはずのジェースンを現代のランスロット(当然男前)かとも感じたようですが、この部分は少し謎です。
ジェースンがマリーナを愛していたことは確かでしょうが、ランスロットはシャロットの姫を愛していなかったのだし、どの要素でランスロットなのか、今のところよくわかりません。
※追記
ジェースンをランスロットだと感じた理由、たぶんわかりました。
マリーナの最期の姿をジェースンが見下ろす様子が、小舟でたどりついたシャロットの姫をランスロットが見下ろす様子と重なっているのかなと。
ランスロットはシャロットの姫を愛することはなかったけど、詩の最後にあるように慈悲の心は持っていた。そういう哀れみの感情を、ジェースンもマリーナに対して当然持っていたのかなと思います。
小説の最後は、テニスンの詩の最後の言葉で締められていました。
読み終わった直後は、バドコック夫人以外の2人を殺したのがマリーナなのかジェースンなのかがわかりませんでした。
ジェースンは最初からマリーナがやったとわかっていて、彼女を守るために狂気のようになった、とあるので、ジェースンがマリーナの代わりに殺したのか...? と。
でもよく考えれば違いますね。マリーナの犯行であることに最初から気づいていたが、彼女を守ろうとして、狂気のようになってその事実を隠した、ということですね。しかし彼女が殺人を続けてしまったために、最終的には睡眠薬を飲ませることになった。
結末が明かされる前の以下の箇所も、最初に読んだときには気づきませんでしたが深いものを感じます。
「ジンクス、わたしをまもっていてくれるわね?」
『鏡は横にひび割れて』(早川書房 クリスティ文庫 376ページ)
「いつまでも」とジェースンは言った。「地獄へ落ちても」
悲しい物語でした。
マリーナがなかなか子どもに恵まれなかったこと、待ち望んだ妊娠中に風疹を移されてしまったこと。マリーナの慰め役となった後に捨てられた養子の子どもたち、障害を持って生まれ、療養所に預けられた実の子ども。
自分の運命を変えた人間の存在を知って殺人を犯してしまい、その後も繰り返してしまったマリーナ。そして愛する妻を止めるために夫がおこなったであろうこと。
どの側面から見ても、胸が痛くなります。
私は非常に鈍感で、殺害の動機についてはミス・マープルの謎解きまで全く気づきませんでした。その直前に、バドコックが以前マリーナに会ったときに風疹にかかっていたことが牧師の口から明らかになりますが、それでも気づかなかった...。
読み返してみるとかなり序盤、バントリー夫人がゴシントン・ホールに招かれてマリーナ夫妻と会話しているときから、マリーナにとって子どもの話題がいかに重大かを示す描写がありましたね。
「お嬢さんやご子息がおありなのですね?」
「四人いらっしゃるのですね」
「四人に——お孫さんたちも?」
結末を知ってから改めて読むと、こういう質問の重ね方も執拗で不自然であると感じますし、すぐあとにバントリー夫人が孫を持つ幸せを楽しそうに語るのをジェースンが止める描写も、「ついさっきジェースン・ラッドが気がついた彼女の手の神経質なふるえも、今はもうおさまっていた。」という描写も、すべてがつながってきます。
マリーナが見つめていた壁の絵の内容も「マリアが赤ん坊を抱いている絵」と最初に明らかにされているので、特に女性読者で気づく人はすぐに気づくかもしれません。
アガサ・クリスティには子どもがいるので、子どもに恵まれなかった女性、子どものことで苦しんだ女性の心理は経験していないはずではありますが、女性が読んで腑に落ちる作品を生み出せるのはやっぱりすごいなと思います。
『鏡は横にひび割れて』物語の背景
風疹について、現在は女性が妊娠を望む前に抗体の有無を確認すべきものだという認識があります。ワクチンもありますし、妊娠中の風疹により胎児が影響を受ける例は現在では少ないはずです。
では、この作品が発表された1962年頃はどうだったのでしょうか。
風疹が胎児に影響を及ぼすことは作品の中でも語られていますが、ワクチンの有無や感染状況はどうだったのでしょうか。
調べてみると、初めてアメリカで開発された風疹ワクチンが認可されたのは1969年。イギリスに風疹ワクチンが導入されたのは1970年とのこと。
それ以前は数年おきに大流行していたということなので、小説が発表された1962年前後にも風疹の流行は起きており、感染を防ぐことは難しかったのではないかと考えられます。
横浜市 風疹について
第8回「風疹」母子感染による難聴の野球選手
日本では、風疹ワクチンの接種が始まったのは1976年。
1977年から女子中学生を対象に定期接種が始まったようです。
ただ、接種の制度に変化があったため、世代によって風疹ワクチンを接種している回数が異なるようです。
推奨の2回接種をしている世代は2000年4月2日生まれ以降だそうです。こう考えると、やはりワクチンは新しい仕組みなんだなということを実感させられますね。
また、アガサ・クリスティの公式サイトには以下のような記述がありました。
Did you know?
The Mirror Crack'd from Side to Side by Agatha Christie - Agatha Christie (UK)
The plot was inspired by Agatha Christie's reflections on a mother's feelings for a child born with disabilities and there can be little doubt that Christie was influenced by the real-life tragedy of American actress Gene Tierney.
「アガサ・クリスティが、アメリカの女優ジーン・ティアニーの実際の悲劇に影響を受けたことに疑いの余地はない」と書かれています。
英語の Wikipedia 情報ですが、ジーン・ティアニーは1943年に娘を出産したが、ファンから感染した可能性のある風疹の影響で、娘は障害を持ってしまったとのこと。
1943年は戦時中ですね...。当然ワクチンはありません。
出産後、精神的に不安定になり治療をしていたとも書かれていましたが、女優という立場でファンからの感染だなんて、つらい思いをどこにぶつければ良いのか想像がつきません。
風疹の感染は現在はかなり抑えられているはずですが、このような悲劇が今後も起きないことを祈るばかりです。
事前知識なく気楽な気持ちで読み始めた『鏡は横にひび割れて』でしたが、思いがけずさまざまなことに思いを巡らせる読後になりました。