『複数の時計』突っ込みどころ満載だけど楽しめる1冊~アガサ・クリスティ
原題は "The Clocks" 。事件現場に置かれていたのは、4時13分に合わせられた複数の時計。
一応ポアロシリーズということになっていますが、他の作品に比べるとポアロの登場シーンは圧倒的に少ないです。
現場付近を偶然通りかかった秘密情報部員のコリン・ラムがハードキャスル警部とともに捜査を行います。で、行き詰まったところで結局ポアロが事件を解決しちゃうっていうパターンの作品。
この『複数の時計』、面白くないわけじゃないんだけど、拡張していくストーリーを収拾しきれていない部分があるというか、アガサ・クリスティへの期待値からすると最後はちょっと残念というか、尻切れトンボ感があります。突っ込みどころが多々。
ただ、一筋縄では終わらせないところは面白いと思ったし、個人的には話の本筋とは違った部分でも興味をそそられる描写が結構あって、その意味でも楽しめました。
1963年発表の作品です。あらすじ・感想・謎解きの考察をまとめました。
目次
『複数の時計』あらすじ
速記タイピストのシェイラは、事務所からの指示を受けて依頼人の家に仕事に向かった。
依頼人は、眼の見えない中老の女性 ミス・ペブマーシュ。なぜかシェイラを指名しており、家に着いて誰もいなければ居間に入って待っているようにとの指示だった。
シェイラが居間に入ってみると、そこにはやたらと時計があった。振子式の柱時計にカッコー時計、陶器の置き時計、旅行用の銀の置き時計、メッキの置き時計、さらに旅行用の革時計。
そのうち4つの時計はすべて4時13分で止まっていた。
そして発見したのは男の死体。
恐怖と驚きのなか依頼人のミス・ペブマーシュが帰宅し、パニックに陥ったシェイラは叫びながら家を飛び出して助けを求める。
ちょうどそのとき、秘密情報部員のコリン・ラムは自分の調査のために通りを歩いていた。シェイラにしがみつかれたコリンは彼女を落ち着かせ、家に入ってミス・ペブマーシュに状況を確認し、警察に電話して友人のハードキャスル警部を呼び出す。
捜査が始まると、奇妙なことがいくつも出てきた。
ミス・ペブマーシュは、タイピストを依頼する電話などしていないと主張した。当然シェイラを指名してもいない。
また、居間にあった4つの置き時計はミス・ペブマーシュのものではなく、そんな時計は見たこともないという。4時13分で止まっていた理由もわからない。さらに捜査中、置き時計のうちの1つは姿を消した。
被害者である男の身元もまったくわからない。遺体のポケットには保険会社の名刺が入っていたが、そんな保険会社も住所も存在していなかった。
コリンは諜報員の仕事と並行して事件を追いながら、退屈しているであろうポアロに愉しみを提供するつもりで彼のアパートを訪ねた。
タイピストとは、タイプライターを使った文書作成を仕事にしている人。技術・知識を必要とする専門職。タイプライターは文字を打って印字する機械で、コンピューターが登場するまで使われていた。
秘密情報部は、イギリスの情報機関の1つ。諜報活動が任務。通称MI6。
秘書・タイプ引受所から派遣されたタイピストのシェイラは、依頼人の家に向かった。無数に時計が置いてある奇妙な部屋で待っていると、まもなく柱時計が三時を告げた。その時、シェイラは恐ろしいものを発見した。ソファの横に男性の惨殺体が横たわっていたのだ......死体を囲むあまたの時計の謎に、ポアロが挑む
『複数の時計』早川書房 クリスティー文庫
解説:柿沼瑛子
『複数の時計』の面白さと読みどころ
この作品が面白い要素はいくつかあると思いますが、4つ挙げてみたいと思います。
1つは被害者男性の身元が全然割れないところ。
途中、被害者男性を知っているという人物が出てきますが、物語の最初に事件が起きてから最後の謎解きまで結局この人が誰なのかが明かされない。
ここまで被害者が謎のままにされるケースって結構珍しいのでは?
読み進めるなかで、被害者が誰だかわからないという謎が常に存在しているので飽きないというか、常に読者の興味を引いている状態になっていると思う。
2つ目は、ミス・ペブマーシュはいったいどういう人物なのか、読者に想像の手がかりを与えておきながらそれ以上のラストを持ってくるところ。
この人はもともと教師をしており、盲目になってからは障害児のための学校で点字を教えているという人。
途中まで読み進めると、この人の素性について多くの読者が同じような想像をすると思うのですが、最後に明かされる正体は想像の斜め上をいくもの。
(少なくとも私はそうだった)
正確に言うと、想像通りの部分と想像を超えた部分が混じったような正体で、「やっぱりそうだったのね」という感情とともに「へっ?」という突拍子のないものを目にした感情も沸き起こり、虚をつかれたような気持ちに。
読み返すと、序盤からミス・ペブマーシュがそういう人物であることがわかるような描写がちらほら挿入されていたことにも気づきました。
3つ目は、やはり犯人が最後の最後までわからないこと。
この人かな? この人かな? と当てずっぽうで容疑者を挙げることはできるけど、それしかできない。
ポアロの謎解きの面白さと犯人の意外さに関しては期待して良い作品です。
4つ目はもちろん(?)コリンとシェイラの関係でしょう。
私はアガサ・クリスティの作品に出てくるロマンスは結構好きです。
事件を中心に話が進むなか適度に恋愛描写があってバランスが良いところとか、当人たちの気持ちはだいたいポアロとかマープルとかにすぐに見破られてるところとか。
だいたいハッピーエンドだし、型としては典型的だと思うんですが、アガサ・クリスティはそれだからこそまた良いというか。なんか平和で。すぐ結婚とかプロポーズとかしてて早すぎでしょっていうのは毎回あるんですが。
そんな感じです。
『複数の時計』手がかりの謎と結末(ネタバレ)
三日月(クレスント)と 61 M の謎
コリンがウイルブラーム・クレスントを調査対象として選んだのは、元同僚が残した三日月の絵と「61 M」という文字の手がかりがきっかけでした。
クレスントは crescent で三日月という意味ですが、作品中では新月(一般的には月が見えない状態を指すはず)という訳語が当てられていますね。
なんでだろうと思って調べてみたら、新月の本来の意味としては「(月が見えなくなったあとに)初めて見える月」ということなんですね。へー。現在は新月は一般的に月が見えない状態のことを指すと思うので、訳された時代の問題か訳者・編集者の方のこだわりなのかもしれません。
さて、この「61 M」の暗号が結局何を意味していたのか、最初に読んだときには最後まで意味がわかりませんでした。61号に住んでいたのはブランド夫婦だし、M って結局何? と。
読み返してみてようやく気づきました。
ポアロが謎解きをしているとき、コリンは、さかさまになったホテルの便箋を見て気づいたんですね。あの手がかりをさかさまに見ていたことに。
手がかりの紙片(ホテルの便箋に書かれたもの)をよく見直してみると、ホテルの住所が印字されている向きでは「61 M」と読めますが、本当は上下さかさまに見て「W 19」という意味で取るのが正しかったんですね。
手がかりの紙片にこんなふうにホテルの住所が印字されていたことにそのとき初めて気づきましたよ。凝ってるね(当然か)。
「W 19」の意味ならわかりやすい。ウイルブラーム・クレスント(Wilbraham Crescent)の W と、ミス・ペブマーシュの住所の 19 ということですね。
ウイルブラーム・クレスントのイメージ図
事件現場となったウイルブラーム・クレスント(Wilbraham Crescent)の住宅の設計は本文中で説明されていますが、家の並びなどがわかりにくかったので図式化してみました。
おそらくこんな感じで良いはず。
全体を引いて上から見ると、おそらくこういう感じでしょうか。三日月型。
番地の数字が小さい側の並びが Lower、大きい側の並びが Higher とされていると考えて良いと思います。
※ 本文中では上側・下側という訳がありましたが(279ページ)、アパートは北にあり、その向かいにミス・ペブマーシュの家があるはずなので、北を上だと考えると Higher が上側、Lower が下側という表現は正しくないのでは、と思っています。
『複数の時計』事件の経緯と結末
この事件の謎解きは、証拠はない状態でポアロが推理を披露し、警察が裏付け捜査をするような形で行われました。
なので最後まで読んだとき、最初の被害者男性はどういう経緯で結局どうやって殺されたのかがよくわからなかった。
途中途中で描かれていた描写を読者が自分でつなぎ合わせて、こういうことなのねって理解しなきゃいけないので、ここでまとめてみます。
(本文中の描写が確定的ではないので、一部推測も含みます)
ブランド夫妻が偽って遺産を引き継いだあと、本物の相続人の知人男性がカナダからやってくることになった。
※本物の相続人はブランドの前妻で、戦争中に亡くなっている
困ったブランド夫妻は、妻の姉であるミス・マーティンデールに相談。偽って相続したことがバレる前に知人を殺してしまおうということになった。
マーティンデールは、昔秘書として勤めていた推理小説家の小説プロットを知っており、そのプロットを流用して今回の殺害計画を主導したと思われる。
ブランド氏はカナダからやってきた知人を迎え、車で自分の家に連れて行き麻薬を飲ませる。その後、洗濯屋を装い、大きな洗濯かごに麻薬を飲んでぐったりした男性を入れてミス・ペブマーシュの家に運び、居間で殺害した。
このとき洗濯屋がミス・ペブマーシュの家を訪れたことを、向かいのアパートの少女が目撃している。洗濯屋の看板も、のちにブランドの家から発見された。
事件を複雑に見せかけるために、マーティンデールは自分の事務所のタイピストを現場に向かわせた。ミス・ペブマーシュから電話で依頼があったように装った。
事件現場には、マーティンデールが事務所で盗んでおいたシェイラの時計を含めて複数の時計を置いておいた。目的は、単純な事件を複雑なものに偽装するため。
時計のアイデアは小説家のプロットから盗んだもので、プロット内では時計には意味があったが、実際の事件では特に意味はなかった。
シェイラを選んだのは、マーティンデールがたまたまシェイラの時計を盗んだから(だと思う。ミス・ペブマーシュとシェイラが母娘だったことは本当の偶然だと思われる)。
検死審問でマーティンデールは、ミス・ペブマーシュが電話をかけてきて仕事を依頼したと証言したが、事務所のタイピストであるエドナはそのとき事務所におり、電話が鳴らなかったことを知っていた。
それを警部に伝えようとした直後、口封じのためエドナはマーティンデールに殺されてしまう。この不測の殺人を実行できたのがマーティンデールだけだったため、ポアロから犯人の1人だと見破られることになった。
殺害したカナダの知人男性については偽りの身元を持たせるため、ミセス・ライヴァルに自分の元夫だと名乗り出るよう偽証を依頼した。依頼者がブランドかマーティンデールかは描かれていないが、ミセス・ライヴァルは依頼者が複数人であることを知っているようである。
しかし偽証をやりすぎて逆に警察の疑いを招くことになり、それを知った犯人たちはミセス・ライヴァルまで殺してしまう。
計画を主導したのはミス・マーティンデール。カナダの知人の殺害はブランド氏が実行。エドナの殺害はマーティンデールが実行。ミセス・ライヴァル殺害の実行犯は不明だが、マーティンデールかブランド氏のどちらかだと思われる。
ブランド氏の妻は計画自体は知っていたものの殺害の実行犯ではないと思われ、最終的には夫と姉(マーティンデール)に罪をなすりつけて警察に自白した。
面白かったのが最後の最後、ブランド氏がカナダの知人を車に乗せてガレージに入っていくのを見たとミセス・マクノートンが言っていたというところ。
ミセス・マクノートンは、序盤の聞き込みの際にめちゃくちゃ信用できない発言をしていた人物です。
明らかに信用できなさそうな人なんですが、その聞き込みの際、カナダの知人の顔写真には見覚えがあると言ってたんですよね。基本的には信用できない人だと思われますが、カナダの知人がブランドの車に乗っていたところだけは本当に見ていたかもしれず、そこだけは正しかったのかもしれない。けど、その他の戯言と同様に思い込みの勘違いかもしれない。
こんな感じで、ミセス・マクノートンの証言が真実かどうかわからない状態で、彼女を思い出させながら物語を終わらせているところが面白かったです。
『複数の時計』突っ込みどころと感想(ネタバレあり)
ここからは、突っ込みどころを含めた感想をネタバレありで書いていきます。
複数の時計の謎... そりゃないぜ
誰もが感じる最初の感想はこれじゃないでしょうか。
「結局時計は関係ないんかい!!」っていう衝撃。
まじすか。
事件現場に置かれた時計の奇妙な描写が素晴らしくて、初っ端からものすごく興味を惹かれただけに、「単純な事件を複雑に見せかけるために置いてみました」程度のものだったとは肩透かし感このうえない。
4つの複数の時計には意味はない。
(シェイラの時計を1つ紛れ込ませて混乱を生み出そうとしただけ)
4時13分にもなんの意味もない。
(これこそ、ポアロが解き明かすべき謎だと思ったのに)
こんな結末ありですか? 許されて良いんですか? タイトルですよ『複数の時計』って。
途中まで膨らませて書いたけど最後疲れて考えるのやめちゃいましたゴメンねっていう雰囲気がこの小説の最後には漂っています。元のプロットの中では意味はあったというのはアガサ・クリスティの言い訳のような。
まぁ、だからといってこの作品は全然ダメとは私は思わないし、面白さもあるから良いんですが。
謎だけ盛大に作っておいて期待させておきながら、特に意味はないわよっていうアガサ・クリスティには「面白かったけどこんなのひどいっ!」と手紙を書きたい気持ちですね。
ミセス・カーティンのこの発言はどうなった?
コリン・ラムとハードキャスル警部が、掃除婦であるミセス・カーティンに聞き込みにいったときのこと。
2人が帰ったあと、ミセス・カーティンは次のようにつぶやいていました。
ふと彼女の頭に浮かんだことがあった。「警察の人に話しといたほうがよかったかしら──」
『複数の時計』(86ページ)
「話しとくって、何をだい、かあちゃん?」
「お前の知ったことじゃないよ。ほんとうになんでもないことなんだし」とミセス・カーティンは言った。
これって、どうにかなりましたかね? どうもなってないですよね?
事件とはまったく関係ない話をわざわざここで挿入したのか。
書いておいた伏線を回収するのを忘れていたのか。
うーん、私が気づいていないだけかもしれないが、読み直してもわからなかった。
情報部員のコリン・ラム、凡庸すぎないか?
今回の主役ともいえるコリン・ラムは情報部員っていうことなんですが、ちょっと凡庸すぎませんか? えっこんなんで諜報活動務まるの? と突っ込まずにはいられない。
(いや本物の諜報員がどんな人かとか知らないけどさ。映画のイメージだけどさ。)
ポアロほどの推理力が必要だとは思わないけど、基本的な注意力が散漫というか。話の最初から最後まで諜報員と思わせるような頭の切れる言動がほとんど描かれていなかったというか。
シェイラが置き時計の1つを現場から持ち去ったとき、コリンには「手袋を忘れた」っていう理由で一旦その場を離れて取りに行って戻ってきたわけですが、そのときに手袋をしてなかったこととか全然気づいてないんですよね。
不自然な行動なのに少しも疑ってないし、手袋のことも気づいてないし、だめじゃない?
ハードキャスル警部には「シェイラに惚れこんでしまっている」ことが原因かのように言われてますが、それはそれで良いけど諜報員としての能力はそれとは別に発揮すべきだろっていう。
エドナの靴が格子蓋にはまった件に関してもそうです。
いったいどこに格子蓋があったのか、ヒールがもげた靴でいったいどうやって帰ったのか、なぜそのように適切な質問をしなかったのかと、コリンはポアロに詰められています。
鍵のかかった家に入り込む訓練はしているという描写はありましたが、諜報員ってそういうことだけできればよくて、地頭の良さというか頭の切れって必要ないの? 疑問なんですよ。諜報員っていう肩書きとコリンの人物描写がなーんかしっくり来ないんですよ。
この事件はあくまでプライベートな扱いってこと?
本文中には一応、次のようなセリフがありました。序盤のハードキャスル警部とのやりとりで、コリンがポアロに事件の話を持っていこうとしている場面です。
「専門家にも逢ってくるかもしれない」とコリンは言った。
『複数の時計』(181ページ)
「専門家? 何のためにだい? きみはどこかわるいのか?」
「べつに?──頭がわるいのを除けばね。そういう種類の専門家ではないのだよ。きみの本職のほうのだ」
「頭がわるいのを除けばね」っていうのは、ユーモアなのか本人の本心なのか。アガサ・クリスティは元からコリンのことを優秀ではない諜報員として描こうとしていたのかもしれません。
ただ最後の謎解きで、ポアロはコリンのことを「非凡な記憶力がある」と評しています。うーむ。コリンのおかげで事実に近い情報を自分が得られたという意味での評価ですが。
この話の中でコリンの功績は、ポアロに話を持っていったことと、向かいのアパートの少女を見つけ出して証言を聞き出したところくらいじゃないか。
コリンは情報部員とかじゃなく、ただの海洋生物学者ってことにしておいてもらったほうが読者的には納得がいったと思うんですけどねー。そしたら、一般人にしては多少デキて頼りがいのある男みたいになって良いと思うんですけど。
ラーキン事件とかいう結局よくわからない事件をからませたせいでこういう設定になってるんだと思いますが、ラーキン事件とかミス・ペブマーシュの裏の顔については蛇足だったんじゃないかと思う。
この頃から結婚詐欺があったというプチ衝撃
捜査中、被害者男性の元妻だと名乗る女性ミセス・ライヴァルが現れました。
彼女が言うには、元夫は裕福な女性を惚れ込ませ、指輪を与えて婚約した上で投資話を持ち出すことを商売にしていた。相手の女は簡単にお金を渡してしまい、だまされたことがわかっても世間に知られることを嫌がり警察沙汰にはしないという。
えっこれってロマンス詐欺じゃん。そのものじゃん。
現代では SNS を使ったやりとりだと思いますが、本質は同じですよね。相手に恋愛感情を持たせ、それを利用してお金をだまし取る。
結婚詐欺とかロマンス詐欺とか呼ばれるものが、この時代からあったんだ... ということは私の中ではプチ衝撃でした。
なんていうか、人の感情とそれを利用した悪徳行為の発想って普遍的なんだなって、軽く感銘を受けたというか。詐欺に感銘受けてちゃいけないんですが、実際驚いています。
この作品が発表されたのは1963年です。
アガサ・クリスティの作品を読むと、こういう、人の感情や人の性質の普遍性を感じられる発見が頻繁にあって非常に興味深いので、その点でも私はアガサ・クリスティの小説を読むのが好きです。
あの人にはわりあい簡単に惚れこむ女が多かったのです。あんなふうにちゃんとした階級の、れっきとした人間のようにみせかけていたからでしょうけれど。女たちはそういう男性を征服したことが自慢だったのです。そういう男性といっしょの安全な将来に期待をかけていたわけですわ。
『複数の時計』(340ページ)
結婚詐欺にあってしまった女性についての上記の描写なんかも、現代のロマンス詐欺で報道されている通りだし。
そうした共通認識が当時のイギリス社会にあったのか、アガサ・クリスティの周囲にそうした女性が実際にいて心情がわかったのか、もしかしたら本人自身にも似たような経験があったのか、どうなんだろう... というところまで少し考えてしまいました。
(邪推をお詫びします)
タイピストという職業──スピード、正確性、教養
タイピストってこういう職業だったんだ、と勉強になりました。
思っていたよりも高度な専門職なんですね。
タイピストはタイプライターを打つ人、というのは普通に想像がつくんですが、今でいう PC のキーボードを単に打つっていうのとはちょっと違うんですよね。
参考になるのが本文中の以下の記述。
ミス・マーティンデールはシェイラのことを次のように評価しています。
相当の水準のスピードをもっていますし、かなりの教養も備えています。細心で正確なタイピストです
『複数の時計』(67ページ)
スピードや正確性が必要とされるのはわかるんですが、「教養」という言葉。
調べてみると、どうやらタイピストは手書き原稿をただタイプすれば良いというわけじゃなく、その原稿に文章としての誤りはないか、情報として誤りはないかなど、つまり校正作業もできないといけなかったようなんですよね。
当然ネットもない時代。本人がどれだけ知識と教養を備えているかがタイピストとして重要なんだと。
また、マーティンデールは次のようにも言っていました。
何か調査が必要な場合にも、わたしは何かとお手伝いをしております──年月日、引用句、法律上の問題や警察の活動方式の調査、毒薬についての詳細な事実、そういった種類の仕事ですの。小説の舞台を外国に選ばれる方々には、外国人の名前や地名や料理店などを調べてさしあげます。
『複数の時計』(73~74ページ)
やはり、こういうことができるタイピストが重宝されるということ。
タイピングの腕自体はトレーニング次第でなんとかなりそうだけど、インターネットがないなかで本や新聞などから正しい知識と教養を身につけること、また正しい情報の調べ物ができるネットワークや伝手を作ることが、タイピストやタイピスト派遣事務所として成功する鍵なんですね。
ことあるごとにアガサ・クリスティが登場人物に言わせるユーモアな描写もちゃんとありました。
以前は読者も正確であるかどうかは大して問題にしませんでしたが、いまでは機会があるごとに直接著者に手紙を出して、欠陥を指摘したりしますからね。
『複数の時計』(74ページ)
人気作家も大変ですね。