アガサ・クリスティ『死への旅』ボリス・グリドルはなぜ危険だったのか?
1954年に刊行されたアガサ・クリスティの『死への旅』。
本の紹介文には「会心の冒険スパイ小説」とか書かれていて、そう言われるとなんか陳腐そうでなんとなく面白くなさそうな雰囲気を感じてしまうんですが。
面白かったです。
夫に捨てられ娘に死なれて絶望した女性が睡眠薬で自殺しようとしていたところ、「もっとスマートでスリルに満ちた方法がある」として、ある任務を提案されます。
「死にそこなう確率はわずか百にひとつ。おそらく殺されるでしょうが、死のうとしていたあなたなら構わないでしょう。こっちのほうがスリルありますよ」
このとんでもない誘いに興味を惹かれない人などいるのでしょうか。
スパイ小説なので探偵が登場するいつものミステリーではなく、人によって好き嫌いが出そうではありますが、ラストの展開はさすがでした。
目次
『死への旅』あらすじ
一流科学者のベタートンがある日突然失踪した。
彼だけではなく、重要な研究に携わっていた医者や物理学者などがこのところ立て続けに姿を消していた。みずからの意思で失踪したのか、誘拐されたのか、脅されたのか、どんなルートで消えたのか、組織的なものなのか、何も判然としていない。
失踪事件の調査をしていた情報部のジェンソンは、海外で静養したいというベタートンの妻を監視する計画を立てていた。静養を口実に、どこかで夫と落ち合うのではないかと考えられたからだ。
しかし、彼女が乗っていたカサブランカ行きの飛行機は墜落してしまう。
同じ頃、カサブランカを訪れていたヒラリー・クレイヴンは夫の浮気と娘の死により絶望し、睡眠薬で自殺をはかるところだった。
ジェンソンは「睡眠薬での自殺はロマンティックではない」「もっとスマートでスリルに満ちた方法がある」と言い、ベタートン夫人の身代わりとして行動を続けるという任務をヒラリーに提案する。
おそらく殺されることになる非常に困難な任務という話だったが、生きる希望を失って死のうとしていたヒラリーは申し出を受託。
何が起こるかわからないまま、ヒラリーはベタートン夫人が予約していたホテルでの滞在を始めるのだった。
東西の冷戦でふたつに引き裂かれているヨーロッパ。その西側陣営で科学者たちが次々に失踪していた。いままた、めざましい成果をおさめた科学者ベタートンが行方不明となる。東側の陰謀なのか? 英国情報部はベタートンの妻に瓜ふたつの女性をスパイとして敵地に放つが......会心の冒険スパイ小説、新訳で登場。
『死への旅』(早川書房 クリスティー文庫)
解説:中辻理夫
『死への旅』読みどころと感想(ネタバレあり)
原題は "Destination unknown"。直訳だと「見知らぬ目的地」みたいな感じでしょうか。
『死への旅』という邦題は、ヒラリー・クレイヴンの心理にかけたうまい訳だと思う。
ジェンソンの任務勧誘シーン
情報部のジェンソンが一般人女性ヒラリー・クレイヴンに任務を提案するシーンは序盤のハイライトでしょう。
睡眠薬自殺をしようとしていたヒラリー・クレイヴンの部屋を訪れて自殺を止めるかと思いきや、「睡眠薬での自殺はロマンティックではない」として、殺されるかもしれない任務に就くという方法を提案。
「自殺するなら、こっちの方法にしませんか? ちなみにスパイなんですけど」
この提案の仕方よ。
ジェンソンって物語の中では脇役ですが、良い味出てるな~。情報部の人間で、疑り深いし冷淡なんだけど基本的には善人っぽいっていうのがにじみ出ている感じがして。
最後、ヒラリーが無事に任務を終えたときにはまじめくさった顔で「スリルに満ちた自殺ができると請け負ったのに、思いどおりの結果にならなくて申しわけない」と言ったり、ヒラリーとピーターズの結末を目にして「お決まりの場所へ行き着いたようだ」とおそらく無感情に言ったりしていて、面白いんですよね~。
もうちょっと登場させてほしかったくらい。
スパイ小説に期待していなかったサプライズ
アガサ・クリスティならやっぱり謎解きありのミステリーを読みたい人が多いと思うんですが、そんな人をも満足させるラストのどんでん返し。
スパイ小説として読み進めて、最後の最後にここまで期待していなかった人も多いはず。私もそうでした。
ベタートンは核兵器の製造方法を組織に提供したことが罪になるだろうとヒラリーに話しており、研究所から解放されたあと密かに逃げようとしていましたが、彼が犯していたのはもっと重大な罪。
優秀な科学者であった妻エルザを殺し、研究成果を奪って一流の科学者という名声を手に入れていたのでした。
連れていかれた研究所でベタートンが全然成果を上げられなかったのは、自由のない監獄のような環境のせいではなく、もともと優秀な科学者ではなかっただけ、ということ。
ピーターズがエルザのいとこのボリス・グリドルだったというのは、なかなかわからないね。しかも FBI だったっていう。
大切に思っていたエルザを殺され、研究成果も奪われた彼女の復讐として(ベタートンはそもそも研究成果を奪うためにエルザに近づいて結婚していた)謎の場所に乗り込むとは。良い男じゃないですか。
水戸黄門的なお約束を楽しむという読み方
人生に絶望して死のうとしていたヒラリーがスパイ活動を通じて生きる気力を取り戻すストーリー、というのは、まぁ誰だってそういうことになるのかなと思って読み進めると思うし、やっぱりその通りの結果になるんですが、これは水戸黄門的なお約束を楽しむというヤツですね。
結末はわかっていて、その通りになるんだけど、それが良いという種類の話。
ヒラリーが任務中に本当に死んじゃったというストーリーは成り立たないし、そんなことになったら読者が絶望です。そんなストーリーは誰も望んでない。(たぶん)
さらにスパイ活動中に知り合った男性と幸せになるというのはダブルで水戸黄門来たわみたいなお約束なんだけど、この典型的なロマンスで終わらせるっていう安定感が良いのよアガサ・クリスティは。
この、たまたま不幸せな境遇になってしまったんだけど本当は魅力的な女性が最後は素敵な男性と結ばれるっていう型通りのくっつき方が、アガサ・クリスティらしく、古典的ハッピーエンドで良い。
魅力的な人物とそうじゃない人物が対照的
この作品では「魅力的な人物」と「魅力的ではない人物」がかなり明確に区別されて描かれています。
ヒラリーやピーターズは魅力的に描かれているし、私はジェンソンも好きだったし。
一方で、ヘルガ・ニードハイムなんかアガサ・クリスティが「こんな女大嫌いっ」って思いながら書いていたかのようだし、その他のヒラリーと一緒に研究所まで旅をした人たちも(ピーターズ以外)奇人変人っていう扱いで。
そういう人たちの中で、ヒラリーの魅力が際立ったのかなという印象。
人生に絶望していたヒラリーが精力的にスパイ活動に身を投じる流れも全然違和感がなくて、あぁ、もともとこういうことができる女性だったんだなって思わせる人物描写になっているというか。
下手したら、死のうとしてた人がいきなりそんな活動的になったりできないでしょって思われかねないところ、自然な流れで、読者がつい好きになってしまうヒロインとしてヒラリーを描き切っているところがアガサ・クリスティの腕力だなと思った。
ベタートン夫人がボリス・グリドルを危険だと言った意味
ベタートン夫人が死ぬ直前、ヒラリーに「ボリス・グリドルは危険だから、用心するように伝えて」と言ったのはどういうことだったのか?
一度読んだだけではわからなかったんですが、読み直してわかりました。最後にちゃんと書いてありました。
ボリス(ピーターズ)は最初にベタートン夫人に出した手紙で、すべてを書いて伝えていたんですね。
ベタートンが前妻エルザを殺して研究成果を奪ったということを。
「ボリスのことを伝えて。最初は信じられなかった。信じたくなかった。でも、もしかすると、ほんとうかも......もし、そうなら......用心しないと」
ベタートン夫人が何を知っているのか、ボリスとはいったいいつ接触していたのか、よく理解できてなかったんですが、ボリスからの手紙でベタートンの本性を知らされていたということだったんですね。
ジェソップからの尋問でベタートン夫人はそんなことはもちろん一切言っていなかったので、まさかその手紙に書いてあったとはまったく頭になかった。手紙の存在とか忘れてたし。
ベタートン夫人は手紙の内容を信じられなかったけど、もし真実だとするとボリスがベタートンに復讐しに来るだろう、だから気を付けてっていうことだったんですね。
なるほどでした。